日本
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2022・10・29

so sasatani,objective-Saw since 1990.02.02

日記

朝起きてお腹が空いていたので、フランクルフルトとポテトを食べる。むしゃむしゃと食べつつ、うっちゃんとさまぁ~ずさんの番組『内村さまぁ~ず』を見る。久しぶりにお笑いを観た気がする。ぺこぱさんも出ていた。松陰寺さんのセンス、あの平和な雰囲気はとても好き。

りっちゃんの風邪がさっちゃんにうつってしまったので、ゆっくりしてもらうためにりっちゃんと出かける。しれっと古本屋に連れて行き、いくつか気になった本を買う。レコード屋にも寄りたかったがりっちゃんが完全に歩くのに飽きていて、これは無理と判断を下す。駅のそばのベンチで休憩して帰宅。

最寄駅に着いたはいいものの階段と自動販売機にりっちゃんが掴まる。気を逸らそうと何度か挑戦するも失敗。あきらめて飽きるまで付き合う。1時間くらい経過してやっといえにむかう帰路につく。疲労。

帰宅後、お酒とおかずで時間を稼ぎつつりっちゃんを早めに寝かす作戦。…気がつけば夜になっていた。

どうしても夜風を浴びたくなり外に飛び出す。結果、近所のデニーズでアボガドとケイジャンチキンのサラダプレートとハイボールを注文する。食べながら途中にしていた森崎和江さんの『まっくら』を読む。炭坑という特殊な環境下での労働。その環境が作りあげるもの。

下記の著者のあとがきの一文を読み、自分は「ただそれのみに集約されていくのが表現なのではないか」と定義したがっている節があると。加えて「生きる(痕跡)を継ぐという意味での語る」と「言語/文字(表現ツール)を使用して作品に落とし込む」の間について目を向けられた。


文字界も政界も財界もなんというケチくさい度量で人間を計るのか、と、無心に聞きたがる私の体に染みとおらせようと、私の反応に耳を澄ましつつ語っておられたのだ。記憶させる行為だった。


娘の面倒をひとりで一日見ただけで夜風を浴びたくなるのだから、言葉や表現にたどりつくまでには無数のそれ以前があると、改めて。自分には何ができるのか、少しずつ。

とても疲れたが色々と考えられて良かった。12時に就寝。