日本
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2021・12・06

so sasatani,objective-Saw since 1990.02.02

日記

りっちゃんを保育園に送り、朝から仕事でバタバタバタ。息をつく暇もない。取材のやり取りの中で、オーネット・コールマンのおすすめアルバムや経歴を教えてもらい、それを聴いたり「ハーモロディクス理論」を調べたりした。

ちらちらとインターネットの情報を読んだ上で…そもそも何を足がかりに創っているのかという観点を含めて考えている、その足がかり自体をその人だけの特殊にしていく、という要素があると感じた。すごく直感的にオーネット・コールマンは”状態が音楽”という印象。適当にやっても、適切に当たる。きちんとした表現(音楽ならば音楽)にまで昇華されている状態。その状態になるには記憶や経験との対話が必要なのか、五感をその選択した表現(音楽ならば音楽)に落とし込む作業を積み重ねる必要があるのか、なんなんだろう。

ある論文の中でコールマンの発言が取り上げられていた。すごい、その通りだと思う。


厳密な理論で設計されたすべてのことは、何かあるものに対してのみ当てはまるに過ぎない、ということである。何かがなされる方法はひとつではない。言い換えると、あなたが楽器を手にし、手に取った楽器を自己表現のための方法だと思うならば、あなたの楽器が、自らにとっての法則となる


厳密にしすぎるより、多くの対象に対して置き換えられる骨組みを持つ方が普遍性があるというか、柔軟なはず。コールマンの発言の”自らにとっての法則となる”という部分からも「この人は状態が音楽だ!」という印象を受ける。

コールマンに触れて、表現の認識のパラメータのどこかが少し変わった気がする。自分ひとりでspotifyとかでザッとコールマンのアルバムを聴いてもこういう刺激はなかったと思う。そう考えると、人と話すことや教えること/教えられることはやはり尊い。自分に落とし込んだ人から話を聴くこと。同じ説明であっても、全然同じじゃない。感覚的なことなのでどういう風に言えばいいかわからないけど、その人の解釈がある・自分事として捉えている人の話を聞いた人が触発されて、自分事として捉えて自分に落とし込んで、それを誰かに話す…そういう良いループに巻き込まれていたい。

こういう循環は、まさにドラゴンチョップさんに教えてもらった模倣子という概念ではないのか!…わからないけど。

と…いうようなことを考えながら、夜は渋谷の RubyRoom に行った。次回のインストアルバムから何曲か選んで、即興的にラップとして言葉を紡いでみた。キャラクターの中で”その空間における最も適切な言葉とフロウを探す”ことを意識した。うまくいっているのか自分では全然よくわからないけど、とかくベストを。「普段の言葉の探し方をどう変えればいいのか」という観点を得たりしたので、まあまあまあまあ。

SPILIT は”自らにとっての法則”を駆使している人ばかりだと思った。その上で、やっさんとこみちくんのパフォーマンスに面食らった。(こりゃ、かなわん すごい)

「空間に変化(種類は問わない)が起きるのは、芸にまで昇華されているからか」とか帰りに考えてみた。あと、やっさんの音に対するのり方が絶妙すぎて理解の範疇を軽々と超えていた。どういうものか、全くいい表せない。

イベントとして心地よくて、気がつけば飲みすぎてしまった。こういう開けた交流の場があるのは、「ありがとうございます」に尽きる。そして、お話しいただいたおかげでジャズももう一段、深いところで聴けそうな気がする。