日本
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2021・12・10

日記

朝はツイッターでシェアした時に画像が大きくうつるようにアウリーモスキートのホームページを改修。
その後は、昨日から読んでいた『長崎曼荼羅』を読み切る。長崎…思い出せないくらい昔に家族でハウステンボスに行った記憶がある。

交易の窓口となり、他国の文化が入ってきた場所。そういうのを現地の匂いとして感じ取りたい。いつになるかは不明だが、いつか長崎にも行ってみたい。当たり前のように行っている東京も興味の持ち方次第で楽しめる。先月ライブでご一緒したダースレイダーさんが「大人になって知っていることが増えるんだから、楽しくなるでしょ。何隠してんのよ」というようなMCをされていたが至極その通り。知ることには、未来を想像して楽しくなる要素と残酷さが同居しているのかも知れない。”残酷さ”を認識した時にどう考えるか。『長崎曼荼羅』を読んで改めて、前を向いて歩いている状態でありたいと思った。

また別のレベルで思うことを書くと…自分より生活の状況が悪い人のことを考えた場合、自分の綺麗な面・汚い面がみえる。理想主義、人を突き放す、保守的などなど。それらをすべてなんとかしようとする”もがき”みたいな部分はある。それは自己の欲望の肥大化?これは言葉の綾で、自己の欲望の肥大化は何にでも当てはめれる落とし穴みたいなものということもわかりつつ。

「自分はこんなに裕福でいいのだろうか」「ある程度の範囲までは、自分の頭で考えることをしなかった結果だ、いやその結果も環境が作り出したからそれを考えられる人が助けるべきではないか」「自分のやりたいこと(表現)を犠牲にしてまで心血注いでその問題に向かいあっていない。実際にボランティアの活動をするなど実行に移さないのは抱えている問題にそこまでの必然性を感じていないからだろう」「自分には自分なりの貢献の仕方があるはずだ(学ぶことは行動の選択に影響があるので、とにかく勉強すること)」

とか色々考えていると、なんだかなあと。程度の差はあれ、綺麗・汚い部分は多分だれしもが持っている側面だとも思うけど。余裕がある人が私利私欲に走らず、少しずつ分けようよ!というのはある。「ステータスを持ちすぎることがなぜ幸福なの?」という気持ちは根底にある。(それさえも、個人の負け惜しみがつくりだした可能性もある。)

こういうことをあえて書く必要もないかもしれない。先日取材した本屋の店主の関口さんが「ヘイト本を置きません」とあえて宣言している理由を聞いて、感化されたのだろうか。

午後は『海辺のポーリーヌ』という映画を観た。避暑地でそれぞれの恋愛感をぶちまける映画だった。「愛は狂気の一種よ」というセリフが印象的だった。映像が綺麗でずっと観てられる。アンリ・マティスの『ルーマニア風のブラウス』という絵画の色彩をヒントにしたと書いていた。

夜はギターの練習したり音を作ったり、作業をして早めに就寝。毎日、過ぎるのが早い。