日本
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2021・12・19

so sasatani,objective-Saw since 1990.02.02

日記

昨日はずっと横になっていたのもあり体調が万全。よかった。
朝は読みかけの本『幻想の古代史(上)』を読む。考古学の捏造事件(ピルトダウン事件、カーディフの巨人、神の手の藤村さん etc…)について書かれていた。
事件の概要から捏造の原因、計測方法など広く取り扱われていた。考古学の本を読んだことがなかったため、何回か読まないと全然頭に入らないが、少しだけ”考古学”のラベルを頭に貼れた気がする。

捏造されたものに熱を上げている構図、そのスケールが大きいと人が持つ滑稽さの一歩手前のユーモアがあると思った。

そのあとは、ゴダールの映画『女は女である』を鑑賞。歌のないミュージカルを意識した作品だそうで、音とセリフの合わせ方などをみていると腑に落ちる。核をついているのか、ついていないのかよくわからないセリフの応酬が面白い。

鑑賞後に調べていると、そういうのもあるかと…ふむふむ。(フランス語の名詞には『性』があるけど、やっぱり不思議)

(引用)

« Tu es infâme ! »  
君は「最低なヤツ」だ!

« Non je suis une femme »  
いや、私は女性よ!

カリーナはブリアリが “女性” を「un femme」アンファムと言ったと思い、正確には「une femme」ユヌファムだと、文法的に訂正します。
でも彼女、もしかしたら「infâme」アンファム「最低なヤツ」の方の意味だと、ちゃんと理解してたのかも知れませんね…
作品タイトル『女は女である』はここから来てるのかと思います。

「女」は「un femme」でも「infâme」でもなくて「une femme」だってことで。



その後は粘菌について書かれた『粘菌 その驚くべき知性』という本を読む。少し読んだだけであるが、「身体運動そのものが何らかの形で情報処理の過程を担っていると考えるのが自然でしょう。(略)… 神経系が現れる前の生物は神経系なしで情報処理をしてきた」というような一文があった。
「身体運動に含まれる」、これは表現をやる上でいつも頭にある。

感覚を感覚で抽出しようとする抽象度の高い行為だけど、(その人の感性・感覚を含む)情報処理が身体運動に含まれると仮定した場合、「(音楽の場合)最終的にどういう音が鳴っているか」というところから帰納法的(?)にその人の感覚を導き出せる可能性が生じる。

逆を言えば、身体的な動作(技術)を身につければ、そこに情報処理が勝手に含まれてくるという仮説も立てられる。「体で覚える」というのはそういうことなのか。

いずれにしろ、創作の面で考えていたことが単細胞生物の情報処理プロセスに含まれているのかと驚き!(続きが気になる)
“芸術は自然を模している”という話と繋がりそうな予感もある。最後は、単細胞のようなシンプルさに収斂されていくのだろうか。

夜はデューク・エリントンの『Afro Eurasian Eclipse』というアルバムを聴く。大迫力、すごいアルバム。
そして、自分の知らないリズムに対する意識の何かがここにはある気がする。(また言語化できない)
それは「リズムと民族」に対する何かなのか…。

今日は音楽や本や映画に触れて、”何か”ばっかりが生まれた。